心積りノート 考え方・書き方編
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看取る家族の不安と希望Column[コラム]兄弟を看取る立場になった家族の気持ちを考えましょう。医学が人の生死に介入し、一定の成果を挙げるようになって、私たちは人の最期に際しても、医療が介入することを期待するようになりました。かつては自宅で最期を迎えるのが通常だったのが、だんだん病院で亡くなる場合が増え、私たちは自宅で家族の一員が最期を迎えるのを看取るという経験をしなくなりました。そのため、現在、在宅で最期を迎える選択肢が見直され、すすめられるようになっていますが、看取る立場の家族が、そのような経験をしたことがないので、不安で怖いと感じ、及び腰になっています。つまり、「家で看取ることはできない」と考える家族が多いのです。他方、家族の臨終には立ち会わないとならないという思いもあります。「・・・すると、親の死に目に会えない」という表現は、親よりも先に死んでしまうので、死に目に会えないのだというのが本来の意味だという解説もありますが、現在では実際上、「臨終に立ち会えない」という意味で使っている人が多くおり、「死に目に会う」ことを重要視しています。かつ、そのことを重要視するあまり、病院で「息子がくるまで生かしておいてください」といった要望がだされ、人工呼吸器等、本人の益にならないような医学的対応が続けられることがあると聞きます。あるいは、親族一同が死に向う人の枕元に集って、最期の別れをすることが、本人があの世に旅立つことを見送ることになり、本人も安心して逝けるという考えが背景にあるのでしょうか。そうだとしても、そのために、本人を無理やり生かし続けるというのはどうかなと思います。また、「親から常々歌舞伎役者である以上、親の死に目に会えると思うな、と言われていた」と言っていましたが、昔と違い、日本全国に親族が散らばっていることが珍しくなく、歌舞伎役者に限らず、仕事で遠くにいることがよくある職業は多いでしょう。「死に目に会えない」ことにこだわらない文化が形成されることが必要な時代ではないでしょうか。「看取る」というのは、臨終の一点で傍にいるかどうかではなく、死に到る人生の最終段階の56

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