心積りノート 考え方・書き方編
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ステップ2 今後の暮らしと活動についての心積り他人の世話にならないように生きるのがよい以前は、「子が親の世話をするのは当たり前だ」と言われ、そういう社会通念を背景に、家族ないし親族単位で、子たちは協力しあってか、誰かが代表してか、親の世話をしました。時に、子がいるのに親の世話をしないため、住居の周辺の人たちがある程度の世話をするというようなことがあると、「子(息子・娘・嫁)は何をしているのか」と非難されたのでした。「他人の世話になる」ことに対する否定的な気持ちは、このような状況に由来するものだと思われます。こうしたことを巡る事情がその頃から現在大きく変わったのですが、その核にあるのは、「家族」の規模が小さくなり(核家族化)、上記のような昔からのやり方では、子にかかる負担が個人では負いきれないようになってきたことです。また、親族がばらばらに暮らすようになり、仕事の関係で、子の一家は親の暮らすところから遠く離れて暮らしているということも普通の光景になってきています。こういう中で、「子の世話になる=子に迷惑をかける」ことに対する否定的な思いが(これは親の情として以前からあったのでしょうが)、親に当たる側の発言としてよく聞かれるようになったと思われます。また、団塊の世代の少し上の世代から「自分たちは親の面倒はみたが、子に見てもらえるとは思わない」といった発言がなされるようになったのではないでしょうか。介護保険制度は、家族単位で高齢者の世話をするというあり方が崩れた現代の状況に対応するために導入されたものです。ですから、この制度全体が、国民同士の助け合いであって、この制度を利用して、社会資源をつかって、老後の生活を支えることは、一方的に「他人の世話になる」わけではなく、「協力し合う」あり方です。ですが、いまだに多くの地域で、介護保険等により社会資源を使うことに対する否定的な感情が続いていて、それを使うことを考える際に「ご近所の目があるから」と躊躇する原因になっているようです。しかし、皆がご近所の目を気にして社会資源を使わないでいると、社会全体の状況は改善せず、かえって悪化してしまいます。使わないことが標準になってしまうからです。ですから、高齢と共に衰えてきて支援・介護が必要になったら、社会資源を率先して使うことが、社会を住みやすくすることになります。つまり、社会資源を使うことで社会をよくすることに貢献しているのです。ただし、だからといって社会資源はいくらでも自分が希望するだけ使ってよいというわけでもありません。社会全体として提供できる社会資源(つまりパイの大きさ)には限りがあります。それを理解して、一人一人が「これくらいなら使っていいだろう」と考える時代になっているように思います。つまり、「それぞれが思い思いに生きる」ことと、「協力し合って生きる」こととのバランスをとる必要があるわけです。Column[コラム]27ステップ 1ステップ 2考え方ステップ 3ステップ 2おわりに

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