ナラトロジーと臨床の知
野家 啓一

現代では脳科学やコンピュータ科学など自然科学的方法によって人間の「心」を解明しようとする試みが盛んになっています。自然科学の方法は17世紀の「科学革命」を通じて確立されました。それを端的に表現したのが、ガリレオの「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」という一句です。しかし、人間の心や行為を「数学の言葉」で記述することには大きな困難があります。自然科学は数量的に測定可能な「一次性質(長さ、重さ、形、速さ等)」のみを自然界の客観的性質と認め、数量化できない「二次性質(色、音、匂い、手触り等)」や、「心的言語(痛い、悲しい)」を単なる主観的性質として科学理論から閉め出したからです。

人間が生きる「生活世界」は二次性質や心的言語に彩られた世界であり、心や行為の記述には人間科学に特有のアプローチが必要です。自然科学が「物」を対象とする「三人称の科学」であるとすれば、人間科学は「人」を対象とする「二人称の科学」だと言えます。二人称の科学の基盤をなしているのは、「数学の言葉」ではなく、経験を組織化する言語行為としての「物語り(narrative)」にほかなりません。「物語り」は他者との相互作用を通じて紡ぎ出されるものであり、その点で、「臨床の知」と隣接しています。講演では、自然科学と人間科学の違いを明らかにするとともに、人間科学の方法論として最近注目を集めている「ナラトロジー(物語り論)」について考えてみます。

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