人間の間にある倫理
すでに、人間の間で成り立っている倫理について考えました。その過程で倫理的に適切な行為選択の構造について、[状況に向かう姿勢+状況把握⇒行動・選択]というように分析することに言及しました(倫理とは)。本ページでは、この構造について改めて考えます。まずは、倫理ということを離れて、私たちの行動一般がこの構造をもっていると解することができるという点から始めましょう。
行動の構造と倫理
行動の構造
人間の行動・振る舞いは、次のような構造をもつものとして理解することができます。
たとえば、次のようなケースを考えてみてください。
以下の二つが並存すると、私たちは二つの姿勢の間で板挟み状態、あるいは「あちら立てれば、こちらが立たず」状態(=ジレンマ)になります。 やがて、どちらかの姿勢が背後に退き、他方が活性化して、活性化したほうの系列にしたがった行動をとることになります。
[状況に向かう姿勢] + [状況把握] → [行動・選択] という分析の枠組みは、倫理について理解する場面だけでなく、いろいろなところで使いますので、慣れておいてください。
「食べたい」という姿勢は「欲求」と呼ばれるものです。一定の状況で活性化してきます。他方、「太りたくない」という姿勢も、ある意味では自分の容姿や健康をめぐる(知的な要素をもつ)欲求ともいえますが、自然に生じる食欲をコントロールするように働く姿勢ともいえます。このように、私たちのとるいろいろな姿勢の中には「自らの振舞いをコントロールする姿勢」があります。「太りたくない」という姿勢を持つ人は、自分がそういう姿勢をとる際に、「皆このような姿勢をとるべきだ」とまでは思っていません。「皆健康に気をつけるべきだ」と思ったとしても、そうしない人を非難するわけではありません。また、「太りたくない」は、他者に対する振る舞い方に関する姿勢ではなく、自分の容姿や健康に関するものです。
倫理的姿勢
以上のように、私たちが自らの行動・振舞いを選ぶ際には、自らの置かれた状況を把握しつつ、その把握に応じて、いろいろな状況に向かう姿勢をとることで、選ぶ行動・振舞いが結果するのです。
さて、そういう姿勢のうち、自らをコントロールする姿勢の中には、「食べたい」という欲求を「健康を保ちたい」というより理性的な意志によってコントロールするようなものがありましたが、倫理に関わって自らをコントロールする姿勢―「倫理的姿勢」―もあります。
倫理を「人間関係のあり方についての社会的要請」と定義しましたが、この社会的要請に応えようとする姿勢がこのようなものです。
すなわち、これは他者に対する振る舞い方、態度のとり方に関わるもので、自分ひとりがとると決めただけでなく、「皆同じような姿勢をとるべきだ」と思い、そういう姿勢をとっていない人を非難することにもなるものです。
「倫理」は、倫理的姿勢を核にしていますが、それだけを「倫理」と呼んでいるわけでなく、倫理的姿勢から結果する振舞い方(の様式)や、その倫理的姿勢をまさに「倫理的なもの」だとしている社会の通念等々、姿勢の周辺にあるものを含めた文化の総体を指す名です。
倫理的に不適切な行動と倫理的非難
結果として不適切な行動ないし選択がなされたとします。そういう結果が出た場合はいつも倫理的な非難を受けるかというと、必ずしもそうとは限りません。目下の行動・選択の構造分析のやり方に基づけば、不適切な結果をもたらしたのは、倫理的姿勢に欠陥があったからか、それとも状況把握が不適切だったからかです。後者の場合、状況把握が不適切だったのは、倫理的姿勢の欠陥によるのか、それとも行為者の状況把握能力の問題で、やむを得ないことであるかを判別する必要があります。例えば、現在の医学的知見の限りでは、行動の選択に際して医学的状況について結果として不適切な判断をしたのは、不可避のことであったと認められる場合、やむを得なかったと認められるでしょう。しかし、医学的知見について最新の情報を普通に収集していたならば、不適切な判断はしなくて済んだと判定されるような場合、最新の情報について通常の収集をしなかったのは、患者を人として尊重する、あるいは患者の最善を目指すという倫理的姿勢の欠陥の故だと言われ、倫理的に非難されることになるでしょう。次の図はこういう考え方を示すものです。
- 行動が不適切 →
- 1:姿勢が不適切 → 倫理的に非難される
- 2:状況把握が不適切 →
- 2-1:知らなかったのは、倫理的姿勢の問題ではない →倫理的に非難されない
- 2-2:知らなかったのは、倫理的姿勢に欠陥があるからだ →倫理的に非難される
結果が出るためには倫理的姿勢と状況把握の双方が必要
結果としての振る舞い・行動が不適切ではないか?と問われる
→ 倫理的姿勢が不適切なのか/状況把握が不適切なのか